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次回の予定

 投稿者:佐藤  投稿日:2015年12月12日(土)11時08分18秒
返信・引用
  2015年12月 東村山市某所
井上氏と佐藤で『中観と唯識』の読み合せをします。
事象Sacheはどこから、どのように現実のこととして顕現するのか、
脱・主観を視点として思索できればと考えています。

関心のある方、ご教授いただける方の参加をお待ちしています。
 
 

第10回学習会

 投稿者:佐藤  投稿日:2015年 7月28日(火)06時21分22秒
返信・引用
  7月26日(日)10:00~ 於・駒澤大学禅研308

今回の勉強会は、長尾雅人の『中観と唯識』を推挙し、佐藤が担当しましたが頗る不評でした。その要点は「この本のどこに関心が持てるのか」、「こんな内容のことは仏教では当然のことで、どこにも目新しさはない」といった内容のことでした。それに応えて私はいろいろと説明しましたが、納得はしていただけませんでした。
私は今でもこの本の魅力は尽きないと考えていますが、仏教がプロパーというわけではないので、私の理解、思念の方ははたして間違っていたのか、真理は多数決で決まるものではありませんが、一度立ち止まって考えてみたいと思いました。もし第三者から、ご示唆いただけることがあれば助かります。

ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でNicht wie die Welt,ist das Mystische,dass sie ist(どのように世界があるかではなく、それがあるということが不思議なのだ)」と述べています。この命題は、世界を実在するものとして前提しているのか、「ある」ということさえ不思議に思えると語っているのか私には判然としませんが、とにかくここでは「ある」ということが主題とされています。私個人はすべての動詞は「ある」に基づいていると考えていますが、物が本当にあるかについては確信が持てないでいます。物があると判断する根拠は「感覚」が受けている刺激に基づいていますが、刺激を与えているものはもしかしたら幻影かもしれません。物の世界は「私」からは永遠に閉ざされています。
物があるということは世人にとっては疑いのないことのようですが、しかし、釈迦は、物は存在しないと語ります。物は縁起によって存在しているので、たしかなものではないと言います。この説を一旦認めるとすれば、次に、それなら縁起という法は存在するのか、という主張につながります。ここで仏教はすくなくとも法は存在するという上座部派と法すら存在しないという大乗派、中観派へと別れていきます。それから、仏教界では、さまざまな分野で有と無についての論争が始まりました。有相唯識派と中観派の対立はそれを象徴するものであると思われます。清弁『入中論』は中観派の立場から激しく唯識派を非難しています。そうした文献や歴史から推測されることは、有か、無か、という論争はただ相手を論難することに終始し、あまり生産的な関係は見られなかったことと思われます。
そうした論争の具体的な詳細を両者それぞれの立場に立って研究したものが山口益の『有と無の対論』だと推察します。
無である、いや無でも有でもない、いや無であり有である、(どちらの立場に偏るものではないというのは中観派)といったような仏教の根本理念は散々言われてきたにもかかわらず、有と無が互いにそれぞれどのように働いているのかということはあまり語られてこなかったのではないかと推測します。古来、仏教者たちは自らが正しいと考える道をひたすら精進し、それを文字へと還元してきました。有と無がどのように働いているのかといった問題は山口益の研究をもって、その後進である長尾においてはじめて可能であったのではないでしょうか。前述しましたが、私は仏教学者ではないので、読んでいる本も限られていますが、そのなかでも有と無の関係について詳しく書かれてあるものに触れたのは長尾本が初めてでした。
西洋ではハイデガーが有と無の関係について生涯にわたって論究しています。ケーレ以降、彼は性起という現象をSeyn(有る)の側から論じるとしていますが、その現象を見守るのは牧人としての人間であるとされる限りにおいて主観の視点を脱し得ていないと私は考えています。それに比べると、長尾の論じる「有即無」にはどこにも「人間」は介在していません。その意味で長尾本は有無が主客滅却したところで論じられたものとして、さらにはハイデガーのように「有る」を前提しないものとして、とても素直に受けられるのです。「有る」ということは決して確実なことではありません。誕生してから、あるいはその前から私はずっと夢を見ているのかもしれません。有るといわれていることは本当に有る事態を示しているのか、その論証をしきれている人はいません。それは神(宗教)の領域です。
私にとって「有る」は大問題です。科学は存在を仕組みwieによって解き明かそうとしますが、それは存在を迂回して眺めることに過ぎません。しかし、それでも存在を研究対象としている限りにおいて同類であり、あらゆる学の関心は「有る」にかかってると考えています。
勉強会のなかで、「有るという不思議への思い」は議論に値しないのか、あるいは、長尾本が陳腐だというのか、私は困惑の時間に入りこんでしまいました。
そもそも、そうした学への動機さえ認められないのだとしたら、私がこの勉強会に属している意味はないんだろうなというのが現在の私の心境です。長尾本については、残りを簡潔にあと一回でまとめて終わらせようと考えています。まとめる時間が必要なので、次回開催までしばらく時間をいただきたいと願っています。
 

第9回学習会

 投稿者:佐藤  投稿日:2015年 1月 8日(木)01時34分5秒
返信・引用 編集済
  2015年1月7日、石井さん宅で午前10時より3時間、アガンペン著「開かれ」第9~13章を検討しました。人間を動物から区別するものは言語なのか、それを主題として著者が引用している佛教思想、ハイデガーの立場に添って、活発な議論が展開されました。次回は4月を予定しています。  

次回勉強会で話題にしたいこと

 投稿者:佐藤  投稿日:2014年12月31日(水)17時34分3秒
返信・引用
  言葉が存在する意味
アガンベンは『開かれ』第9章で「本来、言語は動物にも人間にもあてがうことはできない」と述べている。つまり、我々において常識となっている、「人間」であることの条件としての言語は、決して本来的に条件にはならないということを述べている。また、アガンベンは、「話す人間は、・・・・自己固有の沈黙を自己の埒外に置いた」と述べている。ここで語られている「沈黙」をどのように解釈すべきであろうか。言葉を使うということが、「沈黙」が意味するところの本質を捨象してしまうということか。
第10章から読みとれることは、通常の用途における「意味」は自我と対象、もしくは自我と他者という二項関係があって初めて成立するということであり、言語以前に「人間」の定義を希求するアガンベンの姿勢は、言語以前の沈黙に真理を求める佛教哲学と同じ姿勢においてあるのではないかということである。真理はまさに沈黙の様態で現出するのである。
 

第8回学習会

 投稿者:佐藤  投稿日:2014年 4月 6日(日)03時08分18秒
返信・引用
  東村山私邸にて、アガンペン著『開かれ』第5~8章の読書会、佐藤小論「宗教的に3」合評を実施しました。『開かれ』については、単独で読めば受け流してしまいがちだが、提唱者のレポートにより深い理解と関心のもてる興味深い議論ができたとは石井氏の弁。充実した学習会となりました。その後、多摩湖でノンアルコールでの花見を愉しみました。
レジュメ、また石井氏から参考資料として提唱された「日本文化のユニークさ」は後日掲載予定です。
 

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